なんでも話すことができる関係
なんてあるの
って思い
おもいながら
なんでも話すことができる関係
があったらこんなどうでもいいことばかり
話そうと
はなそうとし
なくてもいいのかもしれない
しれない
と
ふと思う
留年はしないように、という
メッセージを1年生に向けたガイダンスで学部長が言っていて、
それ以来なんどもそういうことを教員が言ってきて、
それに違和感を持っていた。
留年をせず、国家試験に受かるだけでよいのか。
それ以上のことは期待していない、というメッセージになってしまっていないか。
伝えるべきなのは、なによりも、
よい医師になってもらうために大学が学生に期待する振舞いなのではないかと思っていた。
意欲のない医学生に高尚なことを言っても仕方がない。
そういう考えもある、というかむしろそれが大方のものの見方だと思う。
でも、味気ないよね。
......って思ってたんだけど、
いま、あまり成績のよくない学生に対して、つい、留年しないようにねってばかり言っている自分に気づく。よくない。
学ぶ先に何があるのか示せないのがよくないのか。あるいは彼の勉強のハードルを上手く下げれてないのか。
後者かなー......でもどうしたらいいんだろうな......
部屋を瀟洒にする快感を
知ってしまって、その欲望に少し傾倒してしまっている。
COVID19に罹ってしばらく自宅療養している間、なぜ自分が自分の部屋を嫌いなのかずっと考えていた。一つの原因は、物が氾濫していること。オープンな棚ばかりで、見た目が雑然としていた。リビング用の扉付きの棚を購入した。
それより大きな居心地の悪さの原因があった。蛍光灯の白い明るい光。嫌い。昔から知っていた。元いた大学のあの部屋も多分それで嫌いだった。薄暗いサーバー室の、電灯をつけず外光が差すだけの空間が好きだった。
試しに白熱灯色の電球とフロアランプとデスクライトを買って、天井の電灯を切ってみた。安物でデザインはあまり麗しくない。けど、居心地が格段によくなった。
部屋の居心地をよくするということに、なんとなく自分は後ろ向きだった。そんなことにお金をかけたくないから、だった。清貧という言葉も自分の中で用意していた。
快感を増幅させ、居心地をよくする。そのためには、容易に言語化できない、言語未然の感覚の言うことを聞かなければならない。言葉と雑駁な論理によって抑圧してきた、そういう感性を育てる訓練をしたい。美しい、居心地のよい部屋。
精神科医の神田橋條治も、優秀な精神科医になるためには、患者と空気を闊達に共有できるようにならなければならない、と言っていた。そういう訓練。
それはそれとして、家具やインテリア用品を買い始めるとお金が飛ぶ。ひかえめに。
偏差値と人間
地方医大にうっかり再受験で入ってしまって、偏差値60ちょいというところで、簡単じゃんって思って入学してしまった。
この記事の主題はそういう自分のことではなくて、一年たってようやく気づいたこと。
どうもこの学部は旧帝大の理工と偏差値がかわらない。周りはおっとりした子ばかりで過ごしやすいな、と不遜にも思っていたのだけど、普通に賢い学生なんですね。受験生の上位15%。
彼らのことは好きです。
ただ、なんというか。
賢しらに振る舞わないのは彼らの美徳ではあると思う。でも、やっぱり、賢い人間になろうという欲求をこの一年彼らから感じていない。期末テストでいい点を取ろうとか、GPAを維持しようとかは人によっては思うようだけど、自発的になんか学んで教養を深めるとか賢くなろうという気持ちがある学生に出会えていない。
たとえば医学部という、就職予備校と言われてしまうような場所で「上手くやっていく」のが目標になっても、あるいはいい医師になることが目標になっても、それは「賢くなる」モチベーションにはならないのかもしれない。優等生だなって子は、テスト勉強は頑張るしレポートはテキパキ書くのをみるけど、どうもそれ以上の大学での学びを欲してるようには見えない、気がする。*1
上位大学の学生は、やっぱり賢さをなんだかんだ大事にしている人が多かった。賢く見えないことは嫌がっていた。程度の差はあれ。その違いは、6年の蓄積で少なくない差を生んでしまうような気がする。
でも自分は彼らをやっぱり過小評価していて、色々上級生に会ったら印象が変わるのかもしれない。(まあ、自分が会った上級生数人は・・・って感じだったけど)
コロナ禍で、学生ができることが制限されてしまい、その結果学生がとても受動的になってしまった、と多大の教員がぼやいていた。j
*1:忙しいとか、どうしたらいいのかわからない、とかもあるんだと思うけど。